悟空先生を深掘りシリーズ①~高校教師時代のお話~

目次

高校の先生として過ごした日々

今日は、少し趣向を変えて
古武術の話から、私の“前職”のお話を。

今は古武術を教えながら全国を旅していますが
以前、公立高校の教員をしていました。

教員としては「社会科」の教員として採用されました。
専門科目でいえば「世界史」です。

大学時代は、中国の歴史を専攻していました。
その流れで、世界史、
とくに東アジアの歴史を中心に教えていました。

途中からは、体育の免許も取ることになりました。
これは、自分で「体育もやりたい」
と言い出したわけではなく
学校側の事情もあって
そういう流れになっていきます。


「教育課題集積校」と呼ばれた学校

最初に赴任したのは
某都道府県の
いわゆる「荒れた学校」でした。

当時、教育委員会の言い方では
「困難校」と呼ばれるような学校です。

ただ、「困難校」という言葉は響きがきついので
少し柔らかくして

「教育課題集積校」

という名前に変えたりしていました。

要するに
「課題がたくさん積み上がっている学校ですよ」
という意味なのですが、、、。

簡単に言うと
やっぱり“こんなん校”なんですね。

そこに初めて赴任した時
校舎をぐるっと見て、教員室に入って、
最初に出てきた感想が

「えらいところに来てしまったなあ」

というものでした。


校長先生から最初に言われた一言

赴任してしばらくした頃
校長先生に呼ばれて、こう言われました。

「伊藤先生、ここでは“教育をすること”を
第一義に考えなくていいです」

最初は意味がわからず
「え?」と思いました。

教師ですから
「教育を第一義に考えなくていい」と言われると
戸惑います。

「では、私は生徒たちに対して
何を一番に考えればいいのでしょうか?」

と尋ねたところ

「“調教”をしてください」

と言われたんですね。

“調教”と聞くと
ちょっと言葉がきついですが

その裏には

・子どもたちの身の危険を守る
・先生方の身の危険を守る
・地域の方に迷惑をかけないようにする

こういったことが第一優先である、
という意味が込められていました。


「オラオラ系の先生」を演じる日々

当時の学校には
すぐにキレてしまう子
暴れてしまう子も少なくありませんでした。

生活指導の先生たちが前面に立ち
服装や頭髪のチェックをしたり

「ソックスは白。ワンポイントもダメ」
「スカート丈はここまで」
「その髪型、パーマじゃないのか?」

と、いろいろと言わなければならない。

いわゆる“生活指導”の先生が前に出て
そのすぐ後ろに、私たちが控え、
必要があれば前に出ていく。

そんな立ち位置を求められました。

普段は普通に話をするのですが
いざという時には前に出て
「オラオラ系の先生」を演じる必要があったのです。

だから、生徒たちからの評価としては

「授業はおもしろいけど、普段は怖い先生」

そんなふうに見られていたように思います。

そういう役割が、何年か続きました。

学校がある程度落ち着いてきた頃に
「ようやく、違うキャラクターを出せるかな」と思ったら

また似たような学校に異動になり
同じような役割を求められる。

それがいくつか続いたので

「怖さ」と「おもしろさ」が
共存しているような先生

として、見られていたんだろうと思います。


超ブラックな働き方と、生徒たちの背景

当時の働き方は
今でいう「超ブラック企業」です。

朝は6時には学校に行き
夜は12時近くまで学校にいることも珍しくありませんでした。

そうせざるを得なかった背景には
生徒たちの家庭環境があります。

いわゆる「困難校」と言われる学校には

・シングルマザー
・シングルファーザー
・生活保護を受けている家庭

そういった事情を抱えた生徒が
当たり前のように、たくさんいます。

また、さまざまな差別に晒されてきた
ご家庭の子どもたちも多くいました。

ですから

「勉強だけ教えていればいい」
「スポーツだけ見ていればいい」

というわけには、どうしてもいきません。

生徒たちの生活そのものと
向き合わざるを得なかったというのが
正直なところです。


23年ぶりの再会と、もらった言葉

そういう日々の中で関わった生徒たちとは
今でも同窓会で会うことがあります。

去年は、20何年ぶりかに
ある教え子が、私を探し出して
会いに来てくれました。

彼はもう、大人になり
立派な社会人になっていて

「先生、怖かったけど
唯一、うちらのこと、
ちゃんとわかってくれてた先生やった」

そう言ってくれたんですね。

その言葉を聞いたとき

「ああ、少しは役に立てたのかな」

と、胸の奥がじんわりと温かくなりました。

実は、私には
もう少し柔らかいキャラもあるのですが(笑)

当時は、必要に迫られて
“そちらの顔”を優先していたのだと思います。


先生たちも傷ついていた

一方で、生活指導の先生たちや
最前線で生徒とぶつかる先生たちは
本当に大変でした。

生徒から暴力を振るわれることもあれば
心を病んで倒れてしまう先生もいます。

残念ながら、自ら命を絶ってしまった先生もいましたし
心身を壊して休職される先生も
何人も見てきました。

そういう状況があって

「社会科だけでなく
体育の免許も取ってほしい」

と頼まれたのも
ある意味では自然な流れだったのかもしれません。

ときにはジャージを着てグラウンドに立ち
「はい、みんな走るよ!」と体育を教える日もあれば

別の日には、ネクタイを締めて
教室で世界史の授業をする。

二つの顔を持つ教師として
過ごした時期でもありました。


ちょっと変わった授業の工夫

「授業も、子どもたちが学校に来るなら
おもしろくしていい」

という風土があったので
いろいろ工夫もしました。

映画が大好きだったので
歴史と映画を組み合わせて

「映画を楽しみながら、歴史を学ぶ授業」

をしたりもしました。

学校のそばには大きな川があったので
野外活動として、川に行って生態観察をしたり。

校庭のそばに生えている
「しいの木」から、ドングリを拾ってきて

火を起こし、自分たちでフライパンで炒って
その場で食べてみる。

普通のドングリはアク抜きが必要ですが
マテバシイという種類のどんぐりは
アク抜きなしで食べられます。

味は、甘いわけではありませんが
「味のついていないピーナッツ」
という感じでしょうか。

そこに少し塩をふると
ホクホクして、とてもおいしい。

それをつぶして団子にして
「この班の団子が一番おいしい!」などと
みんなでワイワイやったこともあります。

 

衛生的には、今の基準からすれば
ギリギリのところもありますが(笑)

そういう経験は
子どもたちにとって、強く心に残るようでした。

ペットボトルでイカダを作り
学校のプールの端から端まで
ちゃんと渡り切れるか試してみたり。

ロープワークを学んで
いろんな結び方を覚え
2階から1階に、安全に降りられるか挑戦したり。

そんな授業もたくさんありました。


長く在籍する生徒たちと、その後の人生

いわゆる「普通の高校」は
3年間で卒業するのが一般的です。

しかし、私がいた学校には
5年以上在籍している生徒も
少なくありませんでした。

定時制ではありませんが
休学期間があったり
なかなか卒業に辿り着けない事情があったり。

卒業したあとも
何年か浪人を続けて
大学を卒業する頃には
30歳を超えていた、という子もいました。

その彼は、とても面白い子で
最終的には、某公共放送局に就職し
記者として働いています。

「そこにも、人を見る目がある人がいるんだなあ」
などと冗談を交えつつ

「よく、ここまで歩いてきたな」
と心の中で拍手を送りました。

そういう意味では

「人生、大変だったね」

と言わざるを得ない生徒も
たくさんいました。


生徒や保護者から学んだこと

教員になったばかりの頃は
どこかで

「俺がなんとかしたろう」
「俺が教えたる」

という気持ちがあったと思います。

でも、2年も経つ頃には
はっきりとわかりました。

「自分が生徒に教えているつもりで
実は、学んでいるのは自分の方だ」

と。

特に保護者の方々。


困難な状況の中で
子どものために、自分を犠牲にして
身を粉にして働いている姿。

差別や偏見に晒されながらも
なんとか子どもを守ろうとする姿。

そうしたご家庭の事情を知るたびに
頭が下がる思いでした。

「教える」というより
「学ばせていただいている」
という感覚の方が
年々強くなっていきました。


「在野(ざいや)の教師」を招いて学びの場をつくる

そういう経験を重ねるうちに
学校の外で生きている人たちに
教室に来てもらい、
生徒と一緒に、話を聴く機会を
増やしていきました。

いわば「在野教師」としてのゲストです。

たとえば
オカマバーのチーママさん。

路上生活をしている方。

一部の先生方からは
かなり強い反対もありました。

しかし、実際に話を聴くと
私たち教師の言葉よりも
ずっと、生徒たちの心に届くのです。

あの時代、あの場所で
必死に生きてきた人の言葉には
重みと温度があります。

私自身も、生徒たちと同じ教室で
彼らの話を聴きながら

「学んでいるのは、むしろ自分だ」

と痛感する時間が
たくさんありました。

給料の面、休みの少なさなど
条件だけを見れば
たしかに“超ブラック”な職場でした。

でも、人間関係や学びという意味では
本当に貴重な場を
いただいていたのだと思います。


人はこんなにも変わるし、恐ろしくもある

約30年近く、教育の現場に関わっていると
ある意味「定点観測」ができます。

毎年毎年、いろんな子どもたちと出会い
彼らの変化を見ていくことで

「人は、こんなにも変わるのか」

という素晴らしさと同時に

「人は、ここまで恐ろしい行動も
平気でとれてしまうのか」

という怖さも、強く感じます。

ゲーム、マスコミ、インターネット。
いろいろな情報や刺激に触れる中で

「それ、人としてどうなの?」

という行動を
平気で取れてしまう子どもたちも
残念ながら増えてきています。

魂そのものが
削れてしまっているような感覚です。

こうした現場を見ていると
これから教壇に立つ先生たちは
本当に大変だろうな、と感じます。


若い人たちへのメッセージ

もし、今この記事を
若い方が読んでくださっているとしたら
一つお願いがあります。

もちろん、携帯もゲームも
“悪”だと言うつもりはありません。

家にこもらざるを得ない事情がある人も
いるでしょう。

それでも、できる範囲でいいので

・アルバイトでも何でもいいから
 いろいろな大人と接してみること

・自然の中に入ってみること

この二つを、意識してほしいのです。

人との関わり方。
自然の中での感覚。

それは、画面の中だけでは
どうしても身につかない部分です。


親御さんへのメッセージ

毎日子どもと向き合っている親御さんは
ある意味、毎日子どもを「熟成」させている
最高の教師でもあります。

ただ一つ、強くお伝えしたいのは

「全部、一人で背負い込まないでほしい」

ということです。

親だけで抱え込もうとすると
心も體も、持たなくなってしまいます。

もっともっと
いろんな大人を巻き込んで

みんなで子どもを育てる

そういうイメージを持ってもらえたら
と思います。

近所のおじさんやおばさん。
学校の先生。
習い事の先生。
親戚のお兄さん、お姉さん。

そういう人たちが
いい意味で“トラさん”的な存在になってくれたら
どれだけ心強いか。

「ちょっと変わった、でも温かいおじさん」

みたいな寅さんのような存在が、
一人でも近くにいると
子どもにとっても、親にとっても
大きな支えになります。


おわりに

今回は悟空先生を深掘りする回として
高校教師時代のお話をお伺いしました。

生徒たちや保護者の方々
在野の先生方との出会いを通して

「人間って、すごいな」
「人間って、怖いな」

その両方を、深く感じた悟空先生。

そして今、古武術を通して
また別の形で「教える場」に立っていらっしゃいます。

魅力あふれる悟空先生に
是非一度あいにきてください。


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興味のある方は、ぜひ覗いてみてください。

今日もお読みいただき
ありがとうございました。

次回もどうぞお楽しみに。


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